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2013年9月17日火曜日


インテル 渉外/政府渉外 部長       

杉原 佳尭さん




ワシントンDCでお会いした杉原さんに、東京にあるインテルのオフィスで再会した。
インテルでは政府との窓口となり、米国商工会議所では日本人として理事を務め、日本の地方活性化に向けた法人も立ち上げた杉原さん。その活躍の分野や地域に制限はない。
そんな杉原さんが今掴みとっている多様なチャンスは、市長選というチャンスを逃したことで掴めたものだという。チャンスを逃したからこそ掴めたチャンス、その持つ意味は大きいと感じた。



転機となった市長選挙落選

Q. あのチャンスを逃していれば今の自分はいない、というチャンスをつかんだ経験を教えてください。

質問とは少し違うかもしれないけど、僕の場合はあのチャンスを逃したから今の自分がいる、と考えた方がいいかもしれない。10年少し前、芦屋市の市長選に出たんです。最初は地元の人から声がかかって。でも出る前に自民党から候補者調整というのがあって、そこでもう一人候補がいると言われました。しかもその方が地元では有力候補だから、君は参院選に出ないかと薦められた。でも自分の市長選を応援してくれる人がいる訳で、当時は市長選しか頭になかったんです。だから調整をのまずに参院選の誘いも蹴って、無所属で出ました。今思うと融通性がなかった。結局、惜しいところまでいったんだけど次点で落選してしまいました。


Q. そのチャンスを逃した後、ご自身がどう変わったと思いますか?

落選したから色々なモノが見えたんです。本当にいろんなものが。負け惜しみに聞こえるかもしれないけど、それが今の仕事にも役立っています。
覚えているのが落選した夜のことです。事務所をすぐに撤収して、事務所にあった花とか差し入れものを自宅に持ち帰りました。そうしたらベットの周りが20数鉢の胡蝶蘭でいっぱいになって。そこで寝てたら、死んでもこれだけ胡蝶蘭に囲まれることはない、とか思いつつ、まさに棺桶に入った気がした。落選して、まさにドーンって下に突き落とされてた訳で。自分はここで1回死んだんだという気になりました。

それからですね、意識が変わったのは。もっと能動的になりました。その前に長野で県知事の特別秘書をしてたんだけれども、その頃は休日に知事と一緒に仕事にでてると、休みなのにきついなって、受動的な考えをしていました。でも選挙中なんて、休みの話なんて頭からすっ飛んで出てました。あと投票日まで何日あるんだ、その日までどう過ごそうって。落選した日からもずっと選挙のときの気持ちです。この先、自分に残されているのは30年。その中で、どうやって1日を充実させていこうかって。自分が主体的にその日々を充実させようと思うと、苦しいことも苦しくなくなったんです。

あの市長選で勝っていれば、違った道だったでしょう。また参院選を選んでいても違ったかもしれない。でも今と同じ道を通ることもできなかったと思います。今はサラリーマンの立場としてとしてできることを精一杯やっています。


キーワードは“コレクティブ・アクション”

Q. 具体的に現在のお仕事は?

色々と幅広くやっています。インテルでは渉外部の部長としてITをもっと上手に使って、日本の人が便利になったり幸せになったり、日本全体の経済的な成長につなげられないか、世界に向けて日本をどうレバレッジして行けるのかと政府と一緒に考えています。
それからアメリカの在日商工会議所の委員長を任せてもらって、ビジネスにおけるコレクティブ・アクション(=協力)を促しています。色々な会社があるけども、皆で集まって協力した方がいいことって必ずある訳です。例えばアップルとマイクロソフトだってライバルだけど、このレベルは協力した方がいいっていうのはお互い分かる。そのレベルまではボトムアップでやって、ここからは自分たちで戦いましょう、というのを一緒に考えています。例えばサイバーセキュリティーとかプライバシーの問題です。経団連とかJEITAとか日本の組織のひとと一緒になって、提言をすることもあります。
理事としては、日米関係ですね。特に経済関係を親密にするためTPPも含めてやっていますし、今は、議員交流のお手伝いも始めています。


そのままの日本でいるために変わり続けないといけない

Q. 市長選の時から変わらない目標は日本の成長ですか?

成長だけではないんです。そのままで居続けるためにも、変わり続けなければいけないという思いがあります。日本はすごく良い国だと思うけど、このままずっと日本の経済力が維持できるかっていうと、どう見たってそうは行かない。だったら何かを変えていかないといけないよね、と。改善と改革を日頃からやっていかないと、自らを維持し続けられないと思います。

商工会議所の理事としての役割も同じです。日米関係って水や空気みたいに当たり前と思っている人も多いかもしれない。でもそれは違って、維持するためにはメンテナンスが必要です。例えば前回の衆院選で百数十人の新しい議員さんが出た、でも彼らは前の議員と同じだけアメリカとのネットワークがあるかと言えば絶対にない。だから商工会議所としてサポートできることをやっています。これもコレクティブ・アクションですよね。


高校時代に染みついたコレクティブ・アクションの重要性

Q. なぜコレクティブ・アクションを重視するようになったのですか?

高校時代は大学の付属高校に通っていました。それで友達同士で助けあうのがなんとなく染み付いていたんです。ノートとか過去問題を貸し合ったりして。アメリカに留学していた時も、もっと日本人同士で助け合うべきだなって思って、日本人会を作りました。
この姿勢は今でも持ち続けています。コレクティブ・アクションでお互いが助け合う。それで日本全体がボトムアップできれば、その上で個人が頑張ることで高い成果が出ると思っています。

Q. 個としてのご自身の強みは何だと思いますか?

有難いことに強い体で生んでもらったことでしょうか。無理のきく体に生んでくれたこと、これは天賦の才能というか、いわゆるギフトだと思っています。他の部分は、頭もよくないし、足も長くない。(笑)あとは、地味にやれるところでしょうか。体力には恵まれたけど、才能には恵まれた訳ではないから、自分はコツコツやるしかないと今は思えています。
でも昔は違った。ペンシルベニア大学院を出て自民党に入った時なんかは、どうして自分はアイビーリーグを出て、お茶くみとかコピー取りしてるんだって思ってました。とがってましたね。でも今になって「コピーをろくに取れないやつに、大きい仕事ができるわけが無い」と言う先輩の言葉の意味が分かります。当時はまだコピー機も良くなかったから何百枚も刷っていると必ずトラブルが起きる。それを防ぐために、事前に掃除して中のホコリを取ったりする訳です。そうやって準備が物事の大部分を決めてるっていうのは、今の仕事にも通じるところがあると思います。


日本を変えるカタリストに

Q. 今後身に付けたい能力は?

英語でのアーティキュレーションかな。英語力はいつも問題です。ネイティブである必要はないと思うけど、やっぱりまだまだ使う言い回しが、自分は2級、3級。本当なら1語で表せるところを、2,3語で言ってしまう。自分の思いと合った言葉って、効果的じゃないですか。それに知的な言葉を選択できると、相手も「おっ」てなる。そうすると物事が効率的に進むと思うんです。


Q. そういった能力を身に付けて、達成したい目標は?

昔とあまり変わってないですね。変革を起こしていくカタリスト(=触媒)になりたいんです。そのことによって基礎を強くして日本が変わっていく、そして世界に貢献していける国にしたいです。今はまだ目標の1合目にいるところを、5合目くらいまでいければいいかな。ヘリコプターで連れていってくれたら楽だろうけど、誰もそんなことはしてくれないし、やっぱりコツコツやるしかないと思っています。


2013年7月25日@東京 
聞き手・写真 橋本悠




<杉原佳尭さん略歴>
1988年 同志社大学法学部政治学科卒業
1989年 ペンシルバニア大学大学院 行政管理学科修士課程入学(91年 同課程修了)
1991年 自由民主党本部人事局勤務、翌年国際局へ異動
1993年 ペンシルバニア大学 ウオートン校ローダー研究所 特別講師(日本政治と規制緩和)
1994年 ロンドン政治経済学院(LSE)ヨーロッパ研究所に入り、翌年、移行経済学で修士取得
2000年 9月 田中康夫氏の選挙を総括し、その後、長野県知事特別秘書として長野県庁にて勤務
2003年 4月の統一地方選・芦屋市長に立候補するが惜しくも次点となる
2005年 内閣府の許可を得て特定非営利活動法人 地域情報化推進機構を立ち上げると同時に代表理事に就任し、自治体の情報化推進を支える活動を始める
2006年 インテル株式会社 事業開発本部 政府渉外部長として着任
2011年 在日米国商工会議所 理事に就任
担当委員会は、情報通信委員会、ヘルスケアICT委員会、アメリカ自動車委員会など
2012年 ハーバード大学ケネディ行政学院エグゼクティブコース修了
2012年 4月から7月までワシントン勤務
2013年 在日米国商工会議所 理事再任(二期目)

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